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芸術の秋に物思う

芸術の秋に物思う
暑さが和らぎ、これからはだんだんと過ごしやすい季節になっていきます。真夏の興奮の記憶がまだ鮮明ですが、少しずつ、気持ちが落ち着いていくようです。子どもたちも少しずつ普段の生活リズムを取り戻していくことと思います。
さて、秋の気配を感じるようになると、自然と物思いに誘われることが多くなるように思います。なんとなく人恋しい、メランコリックな気分とともに、夏の興奮の中では忘れていたほろ苦い古い記憶が思いがけず蘇ってきたりします。秋は私にとってはロマンティックというのが一番しっくりくる季節です。
ロマンティックという言葉が出たついでにもう少し、私の独りよがりを続けさせていただくと、この季節になるとなんとなく耳を傾けてみたくなるのが、ドイツの作曲家シューマンの音楽です。青春時代の胸を焦がすような遠い憧れ。そしてほろ苦いと言うにはあまりに痛切な挫折感。それらが交錯してやまない音楽は、力強さとか弱さの同居する、なんとも曰く言い難いものです。『謝肉祭』、『クライスレリアーナ』、『子供の情景』(有名な「トロイメライ」はこの中の1曲です。)などの数多いピアノ独奏曲集や歌曲集から、緻密な室内楽、壮大な交響曲まで、ロマン派の素晴らしさも弱点も含めて、すべてが誠実に表現されている音楽は、人間というものを深く知る上で、またとないものです。
シューマンという人は、未曾有の優れた才能に恵まれながら、決して順風満帆とは言えない人生を生きた人だったようです。50年に満たなかった生涯の終わりのほうは、深刻な精神の病に苦しみました。今こうして自宅や毎日の通勤の車の中で、「全集」と銘打たれたCDを、ごく若いときに書かれた才気あふれる代表作から、後年病に苦しむ中で書かれたあまり有名でない、どちらかと言うと地味な作品まで、あまり行儀のよい聴き方とは言えませんが、取っ替え引っ替えしながら聴いていると、私たちはつい明るいもの、元気のあるもの、愉快なものばかりを追いかけるけれど、そういうことでは人間の片面しか見ないことになってしまう、人間は明るく元気のあるときだけでなく、意に反して何かが上手くいかなかったり失敗するときもある、まして病気になることもあるし、年老いて心身ともにだんだん衰えていくということは例外なく誰にでもやって来ることであり、そういう辛い事態とどうやって向き合い、前を向いてしっかりと生き続けていくかということこそ本当に大事で、真剣に考えなければならないことではないか、という思いを強くさせられます。
私もとうに人生の折り返し点を過ぎてしまいましたが、これまでを振り返ってみて、順風満帆な人生などというものはない、そういうものは実に儚い夢なのだとつくづく思います。毎日さまざまな年齢のたくさんの子どもたちのお世話をしながら、自然と思いは子どもたちのこれからへと誘われます。大きい子は大人の世界がおよそどうなっているか、少しずつ分かってくるので、それなりに具体的に自分の将来を考えていますし、小さい子でも小さいなりに、自分の性格などを踏まえて先のことを考えています。そういうところは普段ごく身近にいる大人にとっては意外なほどです。子どもというものは大人が思う以上に真剣にいろいろ考えているものです。
かつて’80年代から’90年代にかけてのこの国のバブル経済の狂騒を大学生として見聞きした世代の自分などは、一国の経済の調子がよいとはどういうことなのかがよく分かります。今はよくお隣の国中国の経済の調子のよさや、大挙して日本を訪れるかの国の人々の「爆買」のことが話題に上りますが、ああいったことはほとんどすべて、かつて私たち日本人が自ら経験したことです。現在のかの国の人々のあまり評判がいいとは言えない行状を見聞きするにつれ、私たちのかつての姿を見せつけられているようで恥ずかしくなります。
生まれた国が違っても、人間というものはこういうことではあまり変わらないように思います。私たちは何かというと、経済の調子がよいことを善しとしますが、それはまったくもって考えものです。少なくとも私は、あのバブル経済の、何もかもが常軌を逸していたように思われる時代が、この国に再来しないことを願います。あの時代、私たち日本人はある意味最悪でした。自信満々で肩で風を切っていたあのときの大人たちの姿を、私は今の子どもたちに見せたいとは思いません。それは私たち日本人が、一番人間らしくない時代でした。
子どもたちは大人のすること、考えていることを、実に鋭い目で見ています。今の多くの大人は経済が苦境にある、社会は元気を失っていると言って不平たらたらですが、今の子どもたちにとってはそういう、いろいろなものが衰え、元気をなくし、かつての狂騒の跡の残骸ばかりが転がっているような荒涼とした社会の風景が当たり前のものであり、自分たちの将来がそういう風景の中で営まれていくことを、彼らはよく分かっています。多くの大人が考えるような意味での「勉強」は、人生の成功と言えるようなものを保証してくれる何かだと思いますが、今の子どもたちの多くは、そういう素朴なストーリーをもはや信じてはいません。そういうストーリーの底の浅さを、彼らは、私たち多くの大人以上にすでに見透かしているのです。私は、そういう子どもたちの姿勢に共感します。
では、勉強することの意味はどこにあるのでしょう? 内心では抵抗を感じながらも苦労して高校や大学に入るための勉強をするのは、結局は何のためでしょう? 私はそれは、順風満帆というわけには決していかない人生をしっかり生ききるため、成功の喜びや楽しいことも多少はあるにせよ、そうではないことのほうが圧倒的に多い人生というこの上ない難物を、可能な限り健やかに生ききるため、願わくば人間にふさわしいあり方で生ききるためだろうと思います。
さて、シューマンです。苦労の多い人生を送った作曲家だったようですが、その人が遺した作品に私が惹かれるのは、多くの作品の中から聞こえてくる、《それにもかかわらず》という、挫けることを知らない意志のためです。重い精神の病に翻弄された最晩年にあってさえも、想像を絶する苦しみの中で、それでもなお前向きに生きるための力を得ようとして、音楽の世界で模索し続けた苦闘の跡が見えるからです。
芸術の秋と言います。音楽にしろ、文学にしろ、名作と言われてきたものに触れてみるにはよい季節です。芸術なんて敷居が高くて・・というのはいかにももったいないと思います。人が生きていくというのはある意味途方もないことです。人は誰しも自分の人生という得体の知れない難物と格闘しなければなりません。世に言う芸術というものには、その避けられない格闘の跡が他の何よりも誠実にはっきりと刻まれています。私たちはそこに、この何気ない日常、しかし同時にいろいろな困難に満ちたこの日常を、なんとか進んでいくためのたくさんのヒントを見つけることができます。それを利用しない手はないと思いますし、子どもたちにもぜひとも知らせてあげたいことです。
独りよがりなことばかり書いてきたかもしれません。でもどうせここまで書いてきたのだから、というわけでもありませんが、最後に1つ、ある印象的なアフォリズム(警句、箴言)をご紹介したいと思います。「野放図な健康はそれ自体がすでに一種の病気である。それに対する有効な毒は、それ自身を自覚した病気であり、生そのものの制限である。美はこうした効能をもつ病気の一種であり、生の歩みを止め、それによって生の荒廃を食い止める働きをもつ」。(テーオドル・W. アドルノ著、三光長治訳『ミニマ・モラリア 傷ついた生活裡の省察』法政大学出版局) なんであれ調子がよいことそれ自体を目標にするのは大いに考えものです。はるかに価値があるのは、困難のさなかでも簡単に挫けない心だと思います。強さや豊かさ、競争に勝つことを物神崇拝するのではなく(その先に待っているのは・・)、弱さや貧しささえをも強みに変える想像力が大切だと思います。
(アルファ進学スクール水橋校 涌井 秀人)