夏休み

夏休み
夏真っ盛り。塾の教室には、連日たくさんの子どもたちがやって来て、集中して勉強に取り組んでいます。受験生は長時間の講習を、不平1つ言わずによくがんばってくれています。本当に頭が下がります。その素直さと粘り強さが、それぞれの進路の夢を叶えてくれるよう、願ってやみません。
さて今回は、夏休みということで、それにふさわしいと思う1つの詩をご紹介したいと思います。大人の夏休み。大人の夏休みなんて、なかなか思うようには取れないものですが、せめていっとき、心の夏休みを感じていただければ、と思います。
        霧よ、ありがとう
                                 W. H. オーデン
          ニューヨークの気候に慣れて
          スモッグにすっかり馴染んでしまっていたから、
          その妹である汚れのないおまえのこと、
          そしておまえがイギリスの冬に運んでくれるものを
          すっかり忘れてしまっていた。
          いま土着の知識が戻ってきたところだ。
          せっかち人間には不倶戴天の敵
          運転手や航空機には脅威
          急ぎの用の者はもちろんおまえを呪うだろうが、
          でもおまえがクリスマスのまるまる1週間
          ウィルトシャの魅惑の田園に
          滞在する気になってくれたとは
          なんと嬉しいことだろう。
          おかげでだれもせかせか歩き回れなくなり、
          わたしの宇宙は収縮して
          1戸の古い邸宅と
          友情に結ばれた4人
          ジミーとターニャとソーニャとわたしだけになった。
          戸外には茫漠とした静寂が広がっている。
          ウタツグミやクロウタドリのように
          きびきびした性質で
          1年中この土地に
          棲んでいられる鳥たちでさえ
          おまえにすっぽり包まれて
          陽気な鳴き声を挙げずにいる。
          ニワトリはときの声を忘れてしまった。
          うっすら見える木の梢は
          葉音を立てずにじっと佇み、
          おまえの湿気を能率よく凝縮して
          水滴の形にしている。
          屋内には明確な空間があり、
          居心地がよくてたっぷり
          思い出話や読書
          クロスワードや親密なやりとりや浮かれ騒ぎに
          耽けることができる。
          うまい食事に活気づき
          ワインを振る舞われ
          楽しく輪になって座り
          自分の鼻には気がつかず
          他人の鼻ばかりが目につき
          それを目いっぱい冗談の種にする。
          平穏な日々が終わると
          仕事と金銭の世界
          些細なことばかりを気にする世界に
          すぐ帰っていかなければならないのだ。
          夏の太陽が戻っても
          毎日日刊紙が投げかけてくる
          この地球の暗雲は霽れないだろう。
          締まりのない散文が
          汚辱と暴力の事実を吐き出している。
          唖然とするだけでなすすべもない。
          地球は悲惨なところだ。
          なのにこんなにのんびりした陽気な
          特別なひとときをくれて
          霧よ、ありがとう、ありがとう、ありがとう。
沢崎順之助訳編『オーデン詩集』思潮社より
連日のニュースで報じられるのは、本当に、悲惨なことや愚かなこと、情けないことばかり。言葉を失います。まさに「地球は悲惨なところだ」と思う他ありません。人間でいるのが嫌になります。しかし一方で、そういうことには挫けず、陽気に日々を生きていきたいものでもあります。目の前のこと、自分の身の周りのことを、先入観を持たず虚心に見ることが、心を常に陽気に保ってくれる秘訣のように思います。
子どもはそういう意味では天才です。子どもは目の前のことに予断なく向き合います。大人がそこに面白くない影を見るところに、子どもはあるがままの事実だけを見ます。大人がそこに、有意義なものや役に立つものを見るところに、子どもはしかし、あるがままの空虚な事実しか見ません。子どもは意味を問いません。それは経験が乏しいからですし、知識が乏しいからです。だから子どもの無垢な視線は、文字通りの無邪気に終わってしまうことも少なくないでしょうし、時には大きな危険も潜んでいて、大人は目を離せません。しかしあるがままの空虚な事実しか見えないからこそ、そこにいくらでも喜びの種を見つけることができる、というのも真実だと思います。そういう部分は、大人が子どもを見習うべきかもしれません。
曇りのない目で見るとき、物事は、普段見慣れたものとは違った姿を現します。そこには、生活をより人間的なものに変えていくためのヒントが隠れているように思います。垢にまみれた大人の暮らし。現実はこうだと決めつけて、それ以外のものが目に入らない大人の視線。分別はいろいろなことを諦めさせますが、実は諦める必要などまったくないのかもしれません。諦めなければならないと、頑なに思い込んでいるだけかもしれません。大人の灰色の分別と、子どもの無垢で透明な視線。その両方を併せ持つことができれば、心はいつも元気でいられるように思います。
いろいろと面白くないこと、心を苦しめることに事欠かないこの現実世界にあって、それでもなお健全な良識を持って元気に陽気に生きる大人の姿は、子どもたちに前向きなエネルギーを与えることができるでしょう。今の子どもたちは、なかなか前向きな心を持ちにくいようです。悲しいことです。子どもたちをそうしているのは、結局は私たち大人です。どんな状況でも前向きに明るく生きられるというのは、熟練を要する心の技術です。そういう心の持ち方が、よりよい未来を作っていくのだと信じます。これは大人が子どもたちに手本を見せる必要があることです。
  
(アルファ進学スクール水橋校 涌井 秀人)