教室ニュース 水橋校ニュース教室長のきまぐれ日記ー子どもはなぜ勉強しなければならないのか?

教室長のきまぐれ日記ー子どもはなぜ勉強しなければならないのか?

教室長のきまぐれ日記ー子どもはなぜ勉強しなければならないのか?
子どもはなぜ勉強しなければならないのか?
私にとっては何度でも繰り返し繰り返し、自分自身に問いかけなければならない問いです。
多くの大人が、当然のように、子どもは勉強しなければならないと思っているでしょうが、その理由は?と問うと、多くの大人ははっきりとは答えることができないのではないかと思います。
勉強は学校の成績を良くするためにしなければならないと仮定するなら、ではなぜ学校の成績を良くしなければならないのか?という別の問いがすぐに出てきます。それは良い学校に進むためでしょうか? あるいは良い職業に就くためでしょうか? けれど良い学校に進んだとして、あるいは良い職業に就いたとして、その後はいったいどうなると言えるのでしょうか?
大人は子どもの将来の幸福を願って、我が子に勉強しなさいと言うに違いありませんが、では幸福とはいったいなんでしょうか? それは子どもの顔が1人1人違うように、その子その子で違うものなのでしょうか、それとも同じものなのでしょうか?
多くの大人が、子どもの将来の幸福は1人1人違うと答えるでしょう。にもかかわらず、多くの大人がひとしなみ子どもの勉強にたいへんな熱意を示す。これはどう見ればよいのでしょうか? そこには大人の見栄やエゴが隠れているのでしょうか(子どもの中には、大人が子どもの意向を無視して勉強しなさいと言うのはだいたいそんなものだと思っている子もいるかもしれません)。
塾の先生は子どもの成績を上げられるかどうか、子どもに勉強する気になってもらえるかどうかに自分の生活がかかっていますが、これは簡単には逃れようのない周知の経済原理に強いられているまでのことです。塾の先生とはいえ、子どもの勉強について自らの生計の手段という程度の認識しか持っていないとすれば、そのような人に子どもたちを教える資格はない、と私は思います。成績を上げることに躍起になりすぎてもっとずっと大切なことを見失うことにならないよう、塾の先生はよくよく気を付けなければなりません。塾の先生とはいえ、子どもたちに勉強を教えるエキスパート、成績を上げるエキスパートであることにあぐらをかいていては、もっと広い視野から見た子どもの成長にとって害悪となるだろうと思います。たとえその人が比類のない素晴らしいエキスパートだったとしても、です。
人間は多面的な存在ですから、子どもの勉強という一断面だけを取り出して、そこだけをどうこうすることはできません。子どもにとっての勉強は必ず勉強以外のさまざまな要素と絡み合っていて、勉強という一断面を輝かせようとすれば、必ずやそれらの要素に触れないわけにはいかなくなります。そうした要素はあるいは親子関係の歪みであったり、子どもの生活習慣であったり、はたまた子ども自身の将来の展望の暗さであったりと様々です。私は年に何回か親御さんたちと直接話をしますが、どんな要素がその子その子の勉強にとって「アルキメデスの点」になるのだろうかという関心で親御さんたちと話をさせていただいています。決して面談で子どもの成績が上がらないことの言い訳をしているだけではないことは、ぜひ知っておいていただきたいと思います。
結局のところ、子どもの成績を「上げる」とか、やる気を「引き出す」という言い方を、我々大人は安易にしすぎではないかと思います。そういう上から目線の発想が多かれ少なかれ子どもの気持ちを萎えさせるのは明らかです。子どもの成績を上げたいならば、成績を上げさせようなどとは夢にも思わないこと、子どもにやる気になってもらいたいならば、やる気を引き出そうなどとは夢にも思わないこと、私はほとんどそう言いたい気持ちです。そういう、大人が「してやる」ことほど、いくらかでも自立心が芽生え始めた子どもが忌み嫌うことはありません。子どものためを思って? そういうのは果たして大人の身勝手以上のものでしょうか?
では大人は子どもの勉強のために何ができるのか? 大人は子どもの勉強のために何をしてやればよいのか? 子どもが勉強しなければならない本当の理由を、ちゃんと伝えることです。これはとても難しいことのようにも思われますが、大人がある種の視点で自分のこれまでを振り返ってみるならば、誰にも自ずと分かることではないかと思います。大人は誰しも、ここまで苦労して生きてこなかった人は1人もいないと思います。誰しもこの社会の中で、様々な障害にぶつかりながらなんとかここまで来ているはずです。誰もここまで大して痛手を負うこともなくすんなり生きてこられた人はいないはずです。つまるところ、逆境を生き抜いて希望を未来につなげるための助けとなることこそ、人間の知識や知性というものの真の価値ではないかと私は思います。リベラルアーツ(自由の技術)こそ、知識の本領だと私は信じたい。我々が生きているこの世界は、残念ながら、愛にあふれた理想郷ではありません。我々の大切な子どもたちもまた、この薄情で過酷な世界を生き抜いていかなければなりません。
生きることは生半可なことでは行きません。願わくば子どもたちが、よく学び、より良いもの、より人間的なものを創り出してくれますように。我々大人には創り出せなかったものを。私はその手伝いをしたいと思います。
アルファ進学スクール水橋校 涌井 秀人