教室ニュース 水橋校ニュース教室長のきまぐれ日記ー美術館へ行こう!ー

教室長のきまぐれ日記ー美術館へ行こう!ー

教室長のきまぐれ日記ー美術館へ行こう!ー
美術館へ行かれたことはありますか?
富山県には、郷土出身の世界的に有名な詩人で美術評論家でもあった瀧口修造さんが深く設立に関わった近代美術館がありますし(県立近代美術館)、他にも、例えば入善町には古い発電所の建物を再利用したとてもユニークな美術館があったりと、いくつか面白い美術館があります。
これらの美術館は、いわゆる歴史的な名画の類いではなく、近代から現代と呼ばれる時代を節目節目で彩ってきたさまざまな代表的作品を所蔵・展示していることで、以前から日本国内・国外を問わずとても高く評価されてきました。
ピカソと聞いて拒否反応を起こすような人が、このような美術館で楽しく過ごすのは正直難しいことかもしれません。しかし肩肘を張らず、食わず嫌いをしないで、それこそ子どもに返ったような素直な心で、蒸し暑い夏の昼下がりなどに、ほどよくクーラーのきいた美術館の中で、少しばかり日常を離れた不思議な体験をしてみるのは、私は個人的には、なかなか贅沢な時間の過ごし方だと思っています。
「よく分からない」作品を見て回る時の私のやり方は、とにかく素直な心で接しようとすることに尽きます。つまり作品を見て自然に心に浮かんでくるあれやこれやに素直に身をゆだねるということです。どんな考えやイメージが心に浮かんできても、決してそれを押しのけようとはしませんし、もしそれが何か人には言えないような内容のことだったとしても、その場合は人に言わないで自分の心の奥にしまっておくまでのことです。そういう、「よく分からない」作品を見て回る時間というのは、私にとっては、作品がもたらしてくれる見知らぬ世界の印象に身をゆだねながら、同時に、いつもは隠されていて意識することが少ない自分の中のいろいろ意外な部分と向き合うことができる時間です。私はそういう時間を過ごすことが大好きです。
美術は美術の教科書に書いてあるような「正しい」見方で鑑賞しなければならないと思っているような人からすれば、私のこういう自分勝手でまったく節度を欠いた見方はけしからんというふうになるのかもしれません。しかし、何かと自分というものの素直な表現を我慢しなければならないことが多い(と思われるのですが)この日常にあって、わざわざ美術館などというものに出かけていく理由は、私の場合、ふだん無意識に身にまとってしまっている常識という名の鎧(よろい)を、誰の目も気にすることなく脱ぐことができるということ以外には考えられません。
こういう意味で、美術館は私にとってまたとないような癒やしの場所になっています。自分のお気に入りの美術館の中で長い時間を過ごしたあとで外に出ると、目に入ってくる景色も、聞こえてくる街の音も、そしてまた空気さえもが、美術館に入る前とは違ったちょっと新鮮なものに感じられます。こういうことも、私にとっての美術館の効用の1つです。忙しく過ごす毎日の中で、なかなか簡単には美術館へ行けなくなっているのは残念なことですが、忙しい毎日に流されないためにも、できるだけ時間を作って出かけたいと思っています。
美術館の効用ということではもう1つ、忘れられない経験をしたことを思い出します。
詩人でシュールレアリスト、近代美術館の設立に深く関わった瀧口修造さんが生前個人的に収集していた内外の膨大な美術作品を一度に見せる大規模な展覧会が、以前県民会館で催されたことがありました。「夢の漂流物」と題されたその展覧会で会場に並べられていたのは、多くが言ってみればガラクタの類いと見分けがつかないような物たちでした。断片的な、これが美術作品だと言うのはいったいどんな意味でなのだろうと思わず問いたくなるような物の数々でした。
そのての作品を見慣れていた私にとっても、そういう物の数々が所狭しと広い会場に並べられている光景はかなり衝撃的で、まさに壮観だったことをよく覚えています。「ガラクタ」の1つ1つにじっくりと目を留めて見て回りながら、いつしか不思議な気持ちになっていました。こういう「ガラクタ」を死ぬほど真剣に鑑賞している私自身もまた、よく見ると1つ1つ違った個性を持っていて、ある物はいたずらっぽい眼差しで、ある物は人なつっこい眼差しで、またある物は意地悪な眼差しでこちらを見返してくるかのような、何の役に立つわけでもないそういう「ガラクタ」の1つであるかのように感じられてきたのでした。しかもそれが、とても心地よく、清々しく感じられてきたのでした。
美術を鑑賞することで教養を高めるとか、情操を育てるとかいうことは、古くからよく唱えられてきたお題目の1つです。もちろんそういうこともあるでしょう。しかし私が美術館を好む理由はそういうところにはありません。私が美術館を好むのは、そこではありのままの自然な自分を恥じる必要がないからです。歴史的な名画に圧倒される体験も大きな意味があると思いますが、等身大の自分を受け入れる手助けをしてくれる効用も、特に近代・現代の美術にはあると思います。とかく美術は高尚で近づきにくいと思われがちですが、変な先入観を持たずに見ると、意外に親しみやすかったりするものです。
水橋校 涌井 秀人