読書の快楽

読書の快楽
また自分のことで恐縮ですが、以前私は、西洋思想の研究者を目指して、長いこと大学院で勉強していました。
好きな本にどっぷりと浸かる毎日を送れると期待して入った道でしたが、実際は、論文を書かなければならなかったり、学会発表の準備をしなければならなかったりと、いわば常に外から強制される形で本を読むことになりました。もちろん楽しさもあったはずですが、正直なところ、当時は苦痛のほうがずっと大きかったように思います。当時の私は、まったくお世辞にも、模範的な研究生活を送っていたなどとは言えなかったのですが。
そういう世界から遠く離れてしまった今でも、その手の本との付き合いはずっと続いていて、論文など書かなくてもよくなった今では、何か新機軸を打ち出して認められなければならないというプレッシャーもなく、今の付き合い方は、学生時代と比べればずっとほそぼそとしたものでしかありませんが、それでも、単純に読書の楽しみ、というか、読書の快楽というようなものが得られるようになっていて、とてもありがたく思っています。
坂部 恵さんという、西洋思想の研究では重鎮と言ってもいい人が、「私にとってよい哲学・思想書の基準は、それが良質のこころよい居眠りを誘うかどうかにあります」と明言されているのをかつて知って、まさに、我が意を得たり、という感じで、心から嬉しくなってしまいました。坂部さんは続けてこう言います。「(哲学・思想書が)あまり難解・退屈で辟易してぐっすり眠り込んでしまうようでは落第ですし、かといって、あまり切れがよすぎてハイパー・ヴィジル(超覚醒)に誘いこまれる類の本は要注意でしょう。思考の脈動・リズムがおのずから乗り移って、良いワインの酔い心地のように、しばし心地よいまどろみに誘いこまれるのが良い哲学・思想書のしるしなのです」。
日曜日の昼下がりなどに、長いこと読みかけのままになっている本を開いて、それもたいていは外国語から日本語に翻訳されたもので、これは内容から言って仕方のない部分もあるのですが、何が書いてあるのか容易に分からないことも少なくないので、ドイツ語の原書の他に英訳本なども用意して、辞書を引き、それぞれを読み比べながら、とてもゆっくりとしたペースで、もうかつてのようなプレッシャーに苦しめられることもなく、納得がいくまで、よく居眠りなどしながら、読み込み、読み進めるひと時は、私には、ほとんど何ものにも代え難い、最高に幸せなひと時です。
何事も仕事となれば、正確さや確実さばかりでなく、速さも同時に要求されます。仕事の中で寛ぐということが、私はなかなかできないたちです。読書と言っても、院生時代に日常的にしていたのと同じような骨の折れる「作業」で、これも一種の仕事ですが、こういう最高に面倒臭くもあり、かつまた今では具体的な目標を何も持たない、途方もなく悠長でもあるような読書の中で(今読んでいる本を読み終えるのは、いったいいつのことだろうか?)、私は最高に寛ぐことができます。
哲学者のカントの言葉を引いて、こういうのを、「目的なき合目的性」というふうに言ってよいのかもしれませんが、それはともかく、仕事や名誉のためではまったくなく、完全に自分ひとりの内的欲求のみに従ってするこうした「非日常的」読書から、私は、生きていくための根源的な力をもらっているとさえ思えます。そしてまた、いつの間にか身についてしまったこういう悠長な読書の仕方から(本の中身からというよりも読書の仕方から)、私は、自分の日々の仕事の仕方について、読書の仕方をそのまま仕事の仕方に移植するようなことは、もちろんできないのですが、それでも何か少なからぬ刺激を受けているように思います。
塾の仕事と言ってもいろいろなことがあります。塾生の勉強や成績に関わることはもちろんですが、その他にも、塾生や保護者の方々との付き合い、仕事の仲間である同僚やアルバイトの先生との付き合いを始めとして、教室の内外で起きる大小様々なことへの対応があります。
塾の仕事をしていると、塾生の成績のことや、新たな入校があったとか、退校が出そうだとか出たとか、他の仕事でもたいていはそうでしょうが、そういう日々の当たり前の出来事に、喜んだり悲しんだり、またそれによってやる気が湧いたりやる気をなくしたりと、ほとんど気が休まる時がありません。そうした、時には心底疲れてしまったりもする日々の暮らしを、しっかり地に足をつけて、勇気を持って営んでいくための力はどこから来ているかと言えば、私の場合、学生時代から続けてきた読書が、大きな力の源になっているように思えます。と同時に、仕事を通じて日々出あう様々な物事に対し、自分の心を柔軟にして向き合い、いわばそうした物事自らが発している声を、虚心に、誠実に聞こうとすること、つまり、日々の仕事と丁寧に向き合うことが大切だということを、自らの読書の仕方から教えてもらっているようにも思います。
今は亡き経済学者の内田義彦さんに、「トンボ釣りの好きな少年」の話があります。「三度の飯よりトンボを釣るのが好きで嬉々としてトンボを釣ってくる。だがしかし、彼にトンボ釣りをやめさせるのは簡単だ。それはただ一つ、「トンボを釣って来い」と毎日毎日、命令すること。「やれ」と命令されると、本来的に楽しみとしていたことであっても、とたんに苦痛以外の何ものでもなくなってしまう」というものです。院生時代の私は、勉強を中途で投げ出すことは、指導していただいた先生方の励ましもあって、ありませんでしたが、まさに、この少年のようだったと思います。
研究者になることはできませんでしたが、そういうこととは次元の違う人生の楽しみを得られたことは、本当にありがたいことだと思っています。
水橋校 涌井 秀人