教室ニュース 水橋校ニュース教室長のきまぐれ日記ーいつまでも若く Forever Youngー

教室長のきまぐれ日記ーいつまでも若く Forever Youngー

教室長のきまぐれ日記ーいつまでも若く Forever Youngー
先日仕事を終え遅く家に帰ってテレビをつけると、BSで「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」という番組をやっていました。私は新しい映画を観ることはすっかりご無沙汰で、オリバー・ストーンと言えば『プラトーン』や『7月4日に生まれて』を思い出すような古い人間ですが、懐かしい名前につられてドキュメンタリー番組に見入ってしまいました。
アメリカの映画監督オリバー・ストーンはもう70歳近い年齢のはずですが、精神的な若々しさは相当なものだと思います。我々が子どもの頃からずっと教えられてきて常識と化している知識が次々と否定され、まったく新しい光の下で確信を持って語られるのを聞いていて、興味深い一方でちょっとクラクラもしました。
私自身常識的なものの見方・考え方に対しては疑う気持ちの割と強い人間です。しかしそういう私からしても、第二次世界大戦、原爆、冷戦や戦後アメリカについて我々が持っているイメージは大半が嘘で塗り固められたものだとあれほど確信を持ってはっきりと言われてしまうと、かなり違和感もあったのは確かです。ましてアメリカの現代史を、その作品が広く認められている当のアメリカ人が、あれほど批判的に容赦なく語る、それも一部の人々に向けてではなく一般の大勢の人々に向けて語るとなれば、さぞや大きな大きな、反響があったのではないかと思います。
オリバー・ストーンには悪しざまに言われているアメリカですが、少なくとも今のアメリカに、彼のような才能を排除しない度量の大きさがあることに感心もしました。
私は最近アメリカとアメリカの文化(特に創生期のロック音楽)に興味があって、なかなかまとまった時間はとれませんが、少しずつ、いろいろ読んだり、見たり、聴いたりしています。やはりアメリカの長老?映画監督のマーティン・スコセッシが若かった頃のボブ・ディランの活動と姿を独自の視点からまとめた『ノー・ディレクション・ホーム』という長い作品をDVDで観ていて、その中でボブ・ディランがインタヴューに答えて、「他人と同じでありたいとはまったく思わない」と決然として語っている場面に出くわした際も、とても印象的でした。その言葉ほど、オリバー・ストーンのような人の性格を端的に表す言葉もないと思います。
私のような者は、「他人と同じでありたいとはまったく思わない」などと格好よく啖呵を切っても、舌の根も乾かないうちにすぐ不安になってしまいます。こういうことは何かにつけ他人と同じでないと気が済まない日本人の悲しい性(さが)なのかもしれません。悲しいかどうかは分かりませんが、それが我々の社会の宿命であるならば、この社会からはオリバー・ストーンやボブ・ディランのような個性は開花しないのだろうなと思ったりもします。
日本人の、と言いましたが、実は同じことはアメリカにもあるのでしょう。それが彼らのような個性的な人々を苛立たせ、その表現衝動に火をつけるのかもしれません。ボブ・ディランの、生ギター一本でまっすぐに歌う初期のスタイルから大音量のロックバンドをバックにシャウトするスタイルに変わっていく瞬間に映画は焦点を合わせていましたが、ファンの激しいひんしゅくを買いながらも決して後ずさりをしないアーティストの姿に、その確信はいったいどこから来るのだろうかと不思議に思いました。ちなみに私はそのやかましい音楽が大好きです。
ちょっと話が飛びますが、昔学生時代に読んだある本の中で、現代の思想家のエドワード・サイードが、クラシックのピアニストであるグレン・グールドのことを語りながら、芸術というものは常軌を逸したところのあるものだが、そういう常軌を逸した部分のない、あるいは常軌を逸した部分を排除する社会は、きわめて病んだ状態にあるといった旨のことを言っていたのを思い出します。
サイードはイランで生まれ若い頃から移住したアメリカで活動した思想家で、イスラム教徒に対する偏見や差別に満ちた昨今のアメリカ社会で生きる苦労は半端でなかったはずです。しかしアメリカという国は、そういうどうしようもない部分もいっぱいあるに違いありませんが、一方で、社会を健康に保つ常軌を逸したものに対する優れたセンスにも恵まれているように私は思います。
ひるがえって我々のこの日本社会、子どもたちを取り巻く環境はどうでしょうか。
子どもは親が育て、教師が育て、周りの大人たちが育てるといいますが、結局のところ子どもは社会の中で育っていきます。健康な社会では子どもは健康に育つでしょうし、病んだ社会では子どももまた病むことになるでしょう。
社会にとっての健康とはどういう状態をいうのでしょう。明るく素直で、疑いを持たないことが健康なのでしょうか。No! と思います。そういうのは幼児性と言うべきではないかと思います。子どもは幼児性を脱して成長していきます。その過程で子どもはほぼ例外なく周りの大人の世界のすべてに疑いを持つようになります。これは大人にとっては扱いにくい事態です。しかしいったんそうなったら、我々大人はできるだけ真摯に子どもたちの疑いを受け止めてやる他ないのではないかと思います。悪いのは子どもではなく自分たち大人のほうなのではないかと考えてみる必要があると思います。
子どもの発するサイン、大人の常識からすると一見常軌を逸していると思えることの中に、何か大切なことが潜んでいるかもしれないと、一歩引いて思えること、それもまた社会にとっての健康と言えるのではないかと思います。
水橋校 涌井 秀人