物に従う

物に従う
いろいろなことがある人生。生きていれば面白くないこともいろいろあります。大切なのはそこからどうやって立ち直るかということだろうと思います。わずかばかりこの地上で生きてきた自分の経験から思うのは、立ち直りのきっかけはたいていごく身近なところにあるということです。私の場合、何かを片づける、掃除する、それもできるだけていねいに行うというのが、そういうきっかけになることが割と多いようです。
片づけるものは別に何でもいいのです。自分の場合、それは塾の教室の中であったり、自分の家、自分の部屋の中であったりすることが多いです。心がけることはただ1つ、片づけ作業をとにかくていねいに行うこと。とにかくていねいにということを心がけてやっていると、いつの間にか、それまで鬱々としていた気分がほぐれていきます。たぶん目の前にある物に気持ちを向けることで、自分の心の中に閉じ込められ息苦しさにあえいでいた意識が出口を見つけるのだろうと思います。目の前の物に気持ちを向けて、言ってみれば「物に従う」ことが肝要なので、その物が何であるかはたいして重要ではないということになろうかと思います。片づける対象は何でもよいということです。仕事場であろうと家であろうと、台所であろうと自分の部屋であろうと。
かなり前に聞いた話ですが、日本で禅宗の一派である曹洞宗を開いた道元(鎌倉時代の人です)が若いとき修行のため中国(当時は宋と言っていました)に渡り、禅の奥義を究めるという野心に燃えて各地の寺を遍歴した際に、ある寺で位の高い僧が1日中庭掃除ばかりしているのを怪訝に思ってその僧に理由を尋ねたところ、まだ若く未熟な道元には禅の修行の意味が分からないのだと言われてたしなめられたというエピソードがあります。私はそれがずっと頭から離れません。私は仏教にも禅にもまったくもって暗いのですが、若い道元のこのエピソードには納得するところが多いです。悟りというものが、いろいろな執着を離れて心が軽く自由になることだとするならば、そうなるための方法は誰もがすぐ身近に見つけることができる、その方法は決して難しい数々の経典の中にあるのでもなければ、難しい考え方の中にあるのでもないということの、とても分かり易いたとえになっていると思います。
人は誰しも悩みを離れて生きることはできないでしょうし、ときには悩みに心が押し潰されてしまうかと思えることも、誰しもあると思います。悩みから解放されて心が軽くなるために、はるばる大海を越えて他国に渡ったかつての禅僧のような修行をしなければならないわけではないだろうと思います。ただ少し視点を変えてみることで、多少とも心が軽くなることはいくらでもあると思います。自分の心の中を、考えても容易に解決の見えない問題をじっと見つめ続けるのではなく、ときどき視点を外に向けてみる。目に映る物にしばらく集中してみる。それはたぶん料理などでもよいのです。道元のエピソードを紹介しましたが、他にもそれと似たエピソードがあります。「将来のことを考えていると憂鬱になったので、そんなことはやめてマーマレードを作ることにした。オレンジを刻んだり、床を磨いたりするうちに、気分が明るくなっていくのには全くびっくりする。」(ナイチンゲール)
将来についての不安とマーマレードを作ること。人生においてより重要なのはどちらでしょう? たいていの人は、将来についての不安のほうがより重要に決まっていると答えるのではないでしょうか? そう、将来のことのほうが重要、マーマレードごときがそれより重要なんてことはあり得ない‥。でもちょっと待てよ、普段疑ったことはなかったけれど、本当にそうだろうか? こんなふうに疑ってみることから、おそらく古来哲学や宗教は始まったのでした。
すべての人が等しく安寧に生きられることが、人間のあらゆる活動の究極の目標であると仮定すれば、マーマレードを作ることのほうがより重要であることは明らかだと言いたいくらいです。人生というものが続く限り、将来についての悩みが解消することはおそらくないでしょう。ときに絶望的な思いに駆られることも。それに対して、マーマレード作りやそれに伴う台所仕事のいろいろが、悩みを忘れさせ気分を明るくしてくれることは疑いのない事実だと思います。これは、道元禅師の師匠が行った庭掃除という行為も同じです。
普段私たちは、意味のある行為、あるいは目的のある行為というものに、囚われすぎる傾向があるのではないでしょうか。例えば、親というものは我が子をまともな大人に育てなければならないという根強い観念がそうです。社会人というものは、属している会社のために誠心誠意努めなければならないという観念もそうです。子どもは真面目に学校に通って勉強をがんばってよい成績をとらなければならないという観念も。私は、こういった事柄には実は意味がないと言いたいわけではありません。そういう気持ちは毛頭ありませんが、こういった事柄にあまり強く囚われすぎていては、人はいずれ病んでしまうのではないかと言いたいのです(これは声を大にして言いたいです)。人生をまるで、あらかじめ定められた台本通りに進めていくべきドラマか何かのように思って、台本から少しでも逸れることをいつも心配しているというのでは、気が休まる暇もないでしょう。
第一そのような台本をいったい誰が書いたというのか? 神様でしょうか。だとしてもいったい、私たちに神の意図がすべて分かるのでしょうか。人生については、私たちはもっと謙虚でありたいものだと私は思います。人生には私たちには未だ理解できていないことが全宇宙の星の数ほどあります。今の常識からすれば否定的な評価しか与えられない事柄の中にも、人生にとって有意義なことはいくらでもあるのではないか。少なくともこう生きなければ人生は失敗であるなどと決めつける権利は誰にもないのではないか。自分の人生の意味は、身近な物事や人々と日々つきあう中から自分で見いだしていけばよいものなのではないのか。こういうことを私はよく思います。そして日々の何気ない行為や出来事の中で、この自分の思いを強めてくれるような経験をしています。
ところでゴールデンウィークを迎えるに当たっての私の個人的な思いつきを1つ。若かった頃からの長年の習慣で、これまで本をたくさん買い集めてきました。その中には買ってから何年もの間読まないままになっているものもたくさんあ
り、まさしくこれは道楽というものだなと思っています。たとえ読んでいなくても買った当初はそれなりの理由があって買ったもので(言い訳をしている‥)、今では埃まみれになってしまっているどの本にも、私の個人的な思い出他がくっついています。大型連休中には1つ、それらの本の虫干しと整頓をしてみようかと思っています。所有している本の整理整頓ほど、人の心を動かす「片づけ」もないのではないかと思っています。そこには数々の自他の記憶が眠っており、それらを目覚めさせるのが一大イベントである上に、それらを規則正しく整理し直すというのは考えられる最も知的な片づけではないかと(独り自己満足に耽りながら)思います。皆さんに呆れられてしまいそうですが。
(アルファ進学スクール水橋校 涌井 秀人)