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弱いのは悪いこと?

弱いのは悪いこと?
教育改革ということがしきりに取り沙汰されています。その柱の1つは、小学校から英語を教科化し、英語教育の開始年齢を引き下げることです。それもこれまでの英語教育の文法重視、読解重視の姿勢を改め、読む・書く・聞く・話すのいわゆる4技能を重視する姿勢へ方針転換することが言われています。これはつまり、世界を相手に堂々と渡り合うための実践的な道具として日本人が英語を使いこなせるようにしようとする姿勢への方針転換でしょう。それと今回の教育改革のもう1つの柱は、考える力を子どもたちに身につけさせること。それもこれまでのような、正解があらかじめ用意されている問題を正しく考える力ではなく、正解がどこにもないか、あるいはさしあたりは誰も正解を知らないような問題を考える力が、何よりも重視されています。(正解がない問題を考えると言うよりも、むしろ問題そのものを新たに見つけ出す力が求められていると言ったほうがよいのかもしれません。そしてこれは、言葉の力を鍛えることとも大いに関係してきます。ある問題がどこにどういうものとして存在しているかを誰もが分かるように示すのは、まさに言葉の力によるからです。)
今の子どもたちに求められているこれらの課題はとても困難なもののように思えます。英語の4技能を元来語学が苦手な多くの日本人がどうすれば手早く確実に身につけられるかは、現状では誰も分かっていないことです。正解がない問題を考える力を身につけると言えば、それは元来大学教育が担ってきたはずの課題では?とも思いますが、それが今ことさらに言われているということは、これまでの大学教育の無効を物語っているのかもしれません。今回の改革では、今の大学生にもできない難題が、小学校段階から課されているのだから、英語の4技能も併せ、今小学校、中学校の先生はさぞ大きな混乱に陥っているだろうと思います。もちろん高校の先生も。私のような塾をやっている者も例外ではありません。
ところで教育は国家百年の大計ともいいます。今回の教育改革が究極的には何を目指しているかを考えてみることは、この改革に私たちがどう向き合えばよいかを考える上で、大きなヒントを与えてくれるだろうと思います。国家と教育は切っても切れない密接な関係があります。近代国家の教育とは、ひと言で言えば近代国家の担い手である有能な国民を作り出すことを究極の目標としています。これまでの英語教育が文法重視、読解重視だったことにも当然それなりの理由があり、それは、西欧の学術文化を熱心にとり入れそれに倣って日本の近代化を進めるという明治時代以来の日本の大きな国家的目標があったればこそです。子どもはよく、英語なんて勉強して何になるのか?将来役に立つのか?とぼやきますが、至極もっともなことです。だってこれまでの英語というのは、将来大学や企業の研究部門で西欧の学術文化に専門的に取り組むことになる人のために、その力を早いうちから育てるために、ほとんどそれだけのために、あったと言っても言い過ぎではないのですから。ですから、将来そうなることなどまったく念頭にない子が、英語をまったく無意味なものと思ったとしても、それはもっともなことだったのです。
同様のことは考える力についても言えるでしょう。私たち大人はよく、今の子どもは考える力がないと言って嘆きますが、それはこれまでの教育がそういう力を重視してこなかったことにも原因の一端があります。国家の近代化というのは言ってみればある段階までは目標がたいへん明確で、教育の課題はもっぱら、1つのあらかじめ定められた目標に向けて素直に真面目にお手本通り抜かりなくやるべき仕事をする人間をいかに効率よく作り出すかということだけだったからです。そこでは余計なことを考える人間は、小説家や思想家それに発明家でもない限り歓迎されていなかったのです。ちなみに考える力がないのは、今の大人も子どもと変わりないのではないでしょうか。
近代化という国家の目標がここに来て変わったとは思いません。現代の状況はある意味この近代化という課題をますます尖鋭に私たちに突きつけていると言ってよいかもしれません。グローバリゼーションの名で呼ばれているもの、それは、まったく血も涙もない剥き出しの弱肉強食の市場論理が世界全体を覆い尽くしつつある現実です。かつてはダントツの世界第2の経済大国を誇っていた日本は、今では相対的に地位を下げていますし、輸出で国の命脈を保ってきたその肝心のかつての花形産業の競争力低下、地盤沈下ぶりは、毎日のニュースでしきりに伝えられています。今ここで大きく舵を切らなければ、早晩かつての経済大国も見る影がなくなるという危機感が、今回の教育改革にも強くにじみ出ているように思います。
これまでの英語教育が世界に冠たるもの作り日本や各種の近代的制度確立に寄与すべき優秀な研究者や技術者の育成を究極の目標にしていたとすれば、これからの英語教育が究極の目標とするのは、弱肉強食の世界経済最前線で渡り合える優秀なビジネスパーソンの育成ということになるのでしょう。良いものを真面目に作っていれば自然と競争に勝てた時代は急速に過去のものになりつつあり、今や勝負はほぼ100%営業能力、交渉能力にかかっています。そのための強力なツールの1つが、難しい交渉で使える高度な英語力であり、また刻一刻と変化する世界の中で臨機応変の的確な現実対応ができるための強力な思考力であり判断力であるというわけです。
さてしかし、こういう新しい目標を持った教育がちゃんと機能していくかどうかは、今のところまったくの未知数です。そもそも英語の4技能を満足に指導できる先生は、今の日本にはほとんどいないでしょうし、ITなどがその代わりになるかどうかもまだよく分かりません。正解のない問題を考える力を育てると言っても、先生自身がそういう力を持っていなければ教育にはどうすることもできません。
私は今回の改革については正直なところかなり悲観していて、ごく一握りのスーパーエリート養成は可能だろうけれど、国全体としては上手くいかないのではないかと思っています。となればその行き着く先はどうなるか。極端かもしれませんが、本当にごく一握りのスーパーエリートと、教育が何もかも中途半端に終わってしまう圧倒的大多数の人々という構図が現れるのではないかと思います。かつてとは比べものにならない荒波高波が渦巻く世界で日本
が衰退の一途を辿るまいとすれば、そこに出現するのは、一種の全体主義国家だろうと思います。つまりごく少数のスーパーエリートがすべてを決定し、ごく少数の持てる者と圧倒的大多数の持たざる者とに大きく2極分化した国家。これはかなり恐いことだと思います。苛烈な国際競争に打ち勝つという至上命題のために個人の自由などはほぼ圧殺されることになるだろうと予想されるからです。
以上は私が勝手に思い浮かべる絵空事です。妄想の類いで終わってくれたらと思います。でも現実はそちらのほうへ動き始めているような気がしています。そういう動きを察してかどうか、今の世の中はますますぎすぎすしたものになりつつあるように感じられます。教育は国家百年の大計。弱肉強食の荒野でしぶとく強く生きる者だけが幸福に値するとされるような国で本当によいのか。どう頑張ってもスーパーエリートにはなれないその他大勢の人々には自分の人生について決める権利はないとされるような国で本当によいのか。人間社会とは果たしてそういうものであるべきなのか。ニーチェの超人についてのグロテスクな戯言が現実化したような過酷な未来を想像して、私は心底ゾッとします。人間には弱くある自由もあるのでなければならないのではないか。競争に打ち勝つ力を育てるだけが教育ではないだろうと思います。私はそこを大事にしたいと思います。
(アルファ進学スクール水橋校 涌井 秀人)